懸け橋

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懸け橋
国士舘大学 理工学部
理工学科まちづくり学系 教授 津野和宏

橋といえば私がまだ小さいころ、父があちこちで橋を指差し、「あれは俺が設計したんだ」と言っていました。神奈川県庁から発足間もない首都高速道路公団に転職し、多くの橋梁建設に係わっていました。祖父も曾祖父も土木屋でしたので、津野家は私で土木屋4代目となるようです。そんな血もあってか、中学生の頃から物理と技術家庭(図面作成や工作)だけが得意科目でしたので、その延長として必然的に今の仕事が見えてきたような気もします。
橋と最初に直接関わったのは、早稲田大学4年生の時でした。依田照彦教授の研究室に入れていただき、卒業論文と修士論文テーマが、破壊確率を用いた吊橋主ケーブルの荷重係数の設定でした。30年経って道路橋示方書に荷重係数が採用されたのは感慨深いですが、当時の私はまだ土木学会の示方書との違いもよくわかっていませんでした。
1990年、父が辞めて数年経っていた首都高速に入れていただきました。最初は計画部に配属となり、新規路線の都市計画案作成で基本設計を学び、建設局の設計課や工事事務所では、浮島ジャンクションの設計や中央環状王子線の施工管理に当たりました。
1995年1月に兵庫県南部地震が発生し、阪神高速の高架橋が横倒しになった映像に大きな衝撃を受けたことが、結果的に大きな転機となりました。
震災後、職責で道路橋示方書改訂委員会の末席に座らせていただくこととなり、そこで橋脚のじん性を期待した耐震設計法の起源がニュージーランドのカンタベリー大学であることを知りました。その開発の中心となったBob Park先生が偶然この頃に来日され、懇意にされていた川島一彦先生からご紹介をいただきました。これが縁で、1998年から二年間カンタベリー大学に留学し、Park先生のご指導でRC橋脚の交番載荷試験を行いました。
残念ながらPark先生は、連名で土木学会論文集に2本掲載された直後にご逝去されましたが、これが後に早稲田大学の清宮理先生のご指導で書き上げた博士論文の元となりました。
首都高ではその後、長期間にわたって横浜環状北線の設計に携わり、後に田中賞を頂戴したトラス橋を含む鶴見川沿いの橋梁部やシールドトンネルなどを担当しました。管理局では補修補強設計を行い、出向先の首都高技術では外部コンサルティング業務や点検に関する技術開発などに携わり、インフラの保全が抱える問題に直面しました。
その他にも鋼橋の疲労き裂に関する三木千壽先生の勉強会、藤野洋三先生や前川宏一先生など錚々たる面々にご指導を頂いた橋梁委員会、岸利治先生や岩城一郎先生にご参画いただいた膨張剤併用軽量RC床版の開発など、大変貴重な経験をさせていただきました。また土木学会では、石田哲也先生や細田暁先生の委員会に入れていただき、大いにコンクリートの勉強をいたしました。
改めてこうして振り返り、橋に関係する様々な分野の技術者の皆さんや、大学の先生方との幸運な出会いがあって育てていただき、勉強と研究、技術研鑽の連続だったことを再認識する良い機会となりました。
そして現在、縁あって国士舘大学の川口直能先生の後を継がせていただき、未来の土木技術者を育てる立場となっています。今までの経験を活かし、また新たに研究を重ねながら、土木の楽しさややりがいを学生に伝え、橋をはじめとするインフラを支える貴重な人材を社会に出してゆきたいと思っています。今度は自分が懸け橋になる番なのでしょう。
次は首都高速道路の石原陽介さんにつなぎます。

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