ピーエス・コンストラクション株式会社
東京土木支店安全品質環境室品質環境グループリーダー
千田 秀之
中学生の頃、「東海道五十三次」のカードを収集していました。某お茶漬け海苔のオマケで、各宿場の風景や旅人の様子が描かれた歌川広重の有名な浮世絵シリーズです。私は、特に橋や川が描かれた風景が好きで、もちろん当時「インフラ」の言葉は知りませんでしたが、橋が架かっていない川を人々が渡る情景に橋の重要性が子供ながら感じていました。
大学は土木工学を専攻し、そこで構造力学の故若下藤紀先生との出会いが橋への関わりが深くなりました。先生のわかりやすい講義(一例を挙げると、貨物列車の架台形状はモーメント図)にて、橋梁の構造とデザインについて、ご教示いただきました。先生が顧問をされていました橋梁研究会の活動は、多くの先輩・同期・後輩と出会え、毎年開催されるOB会での再会を楽しみにしています。
会社に就職して、最初の現場は群馬県月夜野バイパスの張出架設に従事しました。会社の先輩より、いきなり斜面にレベルを据えろと言われ、「基準点から仮BMを執るから間違えると大変だぞ」と(笑いながら?)脅されました。平面線形Rがきつく、縦断勾配+たわみ管理があるので、型枠セット時は毎回緊張して測量したことが印象に残っています。
次に従事した現場は、上野~大宮間の新幹線高架橋工事でした。当時はパソコンの無い時代です。ポステン桁製作において、試験緊張後の解析は本社の電算室だけでした。データを夕方電算室担当者にFAXで送り、結果から緊張管理図を夜なべして作成、朝からの本緊張作業に間に合わせます。働き方改革の現在では考えさせられますが、仕事が滞らないことを気概としていました。
20代は北海道に三度に渡り、新幹線・高速道路・ロックシェッド等の建設に携わりました。ロックシェッドの現場は海沿いの峠付近に位置し、公衆電話は山を1時間程降りた所しかありませんでした。一旦、山を降りたら元請け・支店・メーカー・協力会社等との連絡・確認事項で漏れなく所要を済ませる様、心掛けたものです。夏期休暇の際、その頃凝り始めたカメラ片手にマイカーで北海道を1周したことが思い出されます。
30代に入り、横浜市営地下鉄3号線のセンター(北駅~南駅)間の高架橋工事では、張出架設・場所打ち箱桁・T桁(クレーン架設とガーダー架設)・場所打ちホロー桁のジャッキダウン架設等、PC橋の架設工法のオンパレードでした。
この現場では20~30代の若手職員が多く、体験学習現場の色合いがありました。日本では一大イベントに向かってインフラ整備が進みます。長野オリンピック開催に向けて、新幹線・高速道路とそのアクセス道路を長野県佐久市内で集中的に工事を行いました。50代から店社安全担当に就いて現在に至っています。
時代はメンテナンス工事が中心となり、新設橋梁工事が激減しています。設計・工事・安全管理の技術の伝承の滞りが懸念されます。ITの時代であれ、建設業界は経験工学には変わりありません。限られた新設工事に若手を積極的に従事させることが大事と思います。
私は今年の7月に永らく務めた会社を退職しますが、偶然にも4月にドーピー建設工業の牧さんより今回の執筆の依頼があり、43年間の「私ごと」の振り返りの機会が得られたことに感謝いたします。
次回は、大学の先輩で会社の元上司であります、ニューテック康和の宮脇裕明さんにお願いしました。