私の財産

牧 洋之ドーピー建設工業株式会社
東日本グループ安全品質環境管理室長
牧 洋之

「盛岡ってどこ?」。1978年、初めての現場配属を命じられたとき、私の脳裏に浮かんだのがこの問いかけでした。関西で生まれ、福島県より北へ行ったことがなかった私の橋歴は、岩手県盛岡市、日本道路公団(NEXCO東日本)発注のインターチェンジ橋他6橋の工事から始まりました。
その当時、東北自動車道や東北新幹線の延長工事が最盛期を迎えており、プレストレスト・コンクリート(PC)の橋梁工事を主軸とする弊社に入社した私は、「橋とは川にかけて地域に貢献するもの」と考えていたものの、数年間は川とはほぼ無縁で地域の人々と触れ合うことも少なく、当初の考えとはかけ離れた仕事をしているようにも感じていました。
しかし数年後、長野県・千曲川の高岩橋(南佐久郡佐久穂町)の工事を終え、開通当日、「本日より高岩橋が通学路として渡れるようになりました」と町内放送が流れた瞬間、地域のインフラ整備に貢献したことを強く実感し、この仕事に進んだことを改めて誇らしく思うことができました。
また、茨城県の科学万博に伴う筑波研究学園都市と土浦市を結ぶ土浦高架橋工事も私の橋歴の一つとして忘れ難いものになっています。都市景観の美観が求められるPC橋であり、弊社の施工区分は、広い交差点上にバス停を含む拡幅構造を有する大断面の主桁構造が必要な個所でした。当時、私自身で支保工図を一から作成していたため、それを計画するのに多大な時間を費やしましたが、さらに、その支保工の構造上、主梁が密な配置になり交差点内が昼間でも暗くなるという問題が発生したため、防護工や照明の設置など、近隣商店や歩行者、通行車両の安全確保にも気を遣った工事となりました。
竣工検査の際、発注者から「ドーピーさんが一番大変でしたね」と言っていただき、今までの苦労も報われ、この仕事に対する自信がついたことを鮮明に覚えています。
このように昭和の時代から始まった私の橋歴は、盛岡を起点に青森から本四連絡橋、さらには首都高へ広がり、そして、数々の工事現場業務を経て管理へと移行し、現在は安全品質環境管理室に席を置いています。
労働集約型の建設業界の中でも、橋梁建設は細部にわたる作業が要求され、かつてはその多くを人手に依存していました。そのため、人為的なミスが事故につながる危険性が常にありましたが、DXの推進により、その危険性は飛躍的に低下してきていると感じています。
例えばケーブルの緊張管理はパソコンによる管理となり、ケーブルシース内に注入するグラウト材もプレミックスタイプへと変わるなど、施工精度も格段に向上し、また架設作業においても、動力機械や大型クレーンなどの重機を導入し、作業効率や安全性は大幅にアップしています。さらに発注者と受注者が協力して安全に対する取り組みが強化され、契約事項に「4週8休」が定められるなど、働きやすい環境の整備が進められており、かつて「3K」と揶揄された建設業界も、今では大きな変貌を遂げつつあります。
この変遷期を通して得た多様な経験こそ、私の橋歴の中でも特に「財産」となっていると思います。その財産をどのように活かし、この業界を担う若い社員にいかに伝えていくか。それが、今の私の課題です。
それでは次回は私と同じく現場で橋づくりに携わり、その後、安全管理をされてきたピーエス・コンストラクションの千田秀之さんにバトンを託します。

愛知製鋼