PC橋との出会いから振返り

土井 政治株式会社ニューテック康和
顧問
土井 政治

私とPC橋との出会いは、昭和54年8月、就職活動で上京する新幹線より見た大型橋梁である。これが「浜名湖大橋」だと知るのは後の事であるが。当時、その橋梁を目にして、雄大だ、綺麗だ、かっこいい、同じ仕事をするのであればあの様な橋を作る会社がいいな。発想は極めて単純である。
就職先はピー・エス・コンクリート(現ピーエス・コンストラクション)で名古屋支店に配属となった。そこで先輩方より、当社も浜名湖大橋の建設に参加していた事を聞き、社会人としての第一歩、会社選びは上出来である。
ここで、社名について少し補足したい。入社はピー・エス・コンクリートであるが、その後ピーエス、ピーエス三菱を経て、ピーエス・コンストラクションへと社名が変わった。本文の記述内容には社名変更前後に跨る場合もある。ただ、私のベースはPC構造物でありそのポリシーも不変であるので、以降は「PS社」という表記で統一させていただく。
名古屋支店での主な業務は工事担当である。印象に残っている1つ目の工事は、長野自動車道羽尾高架橋である。V字谷を張出架設で施工するのであるが、姨捨SAへのランプ橋も本線橋と一体構造で張り出していくので、箱桁、特にウェブの数が変更となる。そこで、片持ち作業車も2主、3主、4主の各標準、各拡幅という様にその径間の構造に合わせた設備となり、まるで作業車の品評会の様な現場であった。
2つ目は、近畿自動車道(現名古屋第二環状自動車道)の比良高架橋である。国道302号線と市道の交差点部を張出架設で施工するのであるが、これも本線の上下線やランプ橋を一体構造で張り出していくので7室箱桁橋と極まれな構造となっている。当時より日10万台以上が行き交う都市部の交差点上で、7室箱桁橋を張出架設で施工した事は貴重な経験となった。
その後、広島支店工務部に異動した。ここでの一番の業務は何といっても『江島大橋』である。中浦水門上の道路橋は、船舶の通行時には跳ね橋として開放するため、その間(7~8分)は全面通行止めとなり、交通上の障害となっていた。また、総重量14トンを超える大型車は常時通行も不可であった。
それらを早期に解消するため、その諸計画に参加した。また、PS社もJV工事の構成員として施工に加わった。入社前にあこがれた浜名湖大橋を上回る中央径間長を有する橋梁が無事完成した時は、感慨深いものがあった。発注者様、Scope様、JV各社様、ここに御礼申し上げる。なお、開通後「ベタ踏み坂」としてCMにて有名になった事は蛇足としたい。
その後、開発系の営業職として大阪、東京と勤務地も変わった。現在は、PS社の子会社でメンテナンス工事を中心としたニューテック康和に席を移し、若手の指導に当たっている。NEXCO大規模更新・修繕事業の様にメンテナンス工事もその歴史を土木業界に刻んでいる。
そんな中で、次世代を担う若者には、自分の過去の挑戦や失敗例を惜しみなく伝え、時代は変わるが様々な経験を積み、何事にもチャレンジして自分磨きをして貰いたいと願っている。
次は、PS社時代よりいろいろと技術アドバイスをいただいた、神戸大学の森川英典先生(現神戸大学名誉教授)にバトンを繋ぎます。

愛知製鋼