架けた橋の数と同じだけの記憶

林 基樹株式会社IHIインフラシステム
プロポーザル部 大阪技術グループ
林 基樹

片平新日本技研の西川貴志さんよりバトンを受け取りました。岩手県の簗川ダム付替国道における橋梁工事において、西川さんが詳細設計のご担当、私が施工者の設計担当として工事に携わったのがご縁です。  この橋は私が入社7年目の時に担当を任され、約3年の工期を経て2010年に竣工した工事で、現在は落合橋と命名されて盛岡~宮古間の交通を支えています。今日までに50近い橋を担当してきましたが、特に思い出深い橋です。 鋼橋業界の不況が落ち着つき、会社が久しぶりに迎えた新入社員を、私にとっては初の後輩指導をしつつ担当したこと、工事期間中に会社が統合し社名が変わったこと、私生活においても新しい家族が誕生したことなど、節目の時期とも重なっていました。竣工してからは「5年に1度の自己定期点検」と称して、すっかり気に入った岩手県をプライベートで訪問する口実にしています。 さて、前置きが長くなりましたが、私は2000年に北海道大学を卒業し、津軽海峡に橋を架けることを夢見て、現所属会社の前身である松尾橋梁に入社しました。工場での生産管理を通じて橋を一から勉強し、2002年からは設計部に所属、経歴の大半をここで過ごすことになりました。勉強嫌いの私に設計業務は(橋屋にとって致命的ですが!)不慣れな構造計算の繰り返しで、苦しみながら日々の業務をこなしていました。 そんな中、先輩社員から「架からない橋はないよ」と励まされながらどうにか経験を積み重ね、2007年に初めて詳細設計を任されることになりました。 この工事は常磐自動車道の未開通区間では最後の橋梁工事で、高瀬川橋を主とする4橋からなる工事でした。設計も工事も順調に進み、最も先行していた高瀬川橋が完成を控え、地域に向けたお披露目イベントを計画・準備していた最中の2011年3月、東日本大震災が発生しました。 これらの橋は福島県浪江町~双葉町にかけて所在しており、しかも福島第一原子力発電所の北西方向に位置していたのです。当然現場に常駐していた社員や作業員は全員退避、工事は継続できなくなり同年12月に打ち切られることになってしまいました。施工済みの範囲を確認するために撮影された現地の航空写真を見ながらの検査が行われ、「架からない橋もある」のだと、煮え切らない思いで終えたことを昨日のように覚えています。 しかしその後、現場周辺の除染が行われ、震災の2年後に別工事として再開し、2015年についに完成の日を迎えることができました。やはり「架からない橋はなかった」のです。 つい先日まで、国土技術政策総合研究所で交流研究員として、土木業界全般から橋梁業界を俯瞰する機会を得ました。外から見るこの業界はやっぱりいいなと思うと同時に、そこで接した方々からも、橋っていいですよね、いい仕事ですね、とお声を掛けられることがあり、自分の仕事に対する誇りを再認識することができました。 また、大学時代の縁で大学生に向けて橋の仕事の話を毎年させていただいており、そこで次代の橋梁技術者候補に向けて伝えている言葉があります。「橋は100年間使用する前提で作られています。自分が携わった仕事が、自分がいなくなった後も残り続け100年もの間使われ続ける…、そんな仕事って他になかなかないですよね」と。  後進に橋と仕事を愛する気持ちでもって取り組んでいって欲しいと願いつつ、私も架けた橋たちの記憶とともに、初期の夢を追い続けたいと考えているところです。 次は、多くの得難いご指導と機会を2年間賜りました、国土技術政策総合研究所 社会資本マネジメント研究室の中洲啓太室長にバトンをお渡しします。

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