父親の仕事に魅せられて

石原さん写真首都高速道路㈱
東京西局土木保全設計課 課長代理
石原 陽介

幼少で物心がついていない頃に、自分が1~2歳時に作業服姿の父親と一緒に写っている写真を覚えている。世界初の鉄道専用PC斜張橋である三陸鉄道の「小本川橋梁」の現場で撮影された1枚である。父親の仕事はPC橋の設計だった。小学校6年生になる時に、父親の転勤により家族で青森に引っ越した。もちろん橋を造るためであった。この頃になると父親がどこの会社でどんな橋を設計しているか、小学生ながらも理解していた。青森港に架かる「青森ベイブリッジ」であった。青森では現場の近くに住んでいたこともあって、主塔が構築されヤジロベエのように桁が張り出されていく斜張橋建設の様子を見ながら育った。このように、私は物心がつく頃からプレストレストコンクリート・斜張橋というキーワードを聞きながら育ってきた。
今振り返ると、橋との出会いは自分の運命だったかもしれないと思っている。やっとの思いで入学した埼玉大学工学部建設工学科では、構造力学やコンクリート工学など、橋の勉強が楽しくてしょうがなかった。恩師の町田篤彦名誉教授と出会ったのもこの頃だった。先生の授業を受け、コンクリートの魅力に取り憑かれ、コンクリートを本気で勉強したいと思った。修士1年では睦好宏史教授の勧めでタイ国のタマサート大学シリントーン国際工学部(SIIT)に半年交換留学させていただいた。そこでは、ソムヌック教授と出会い、コンクリートの耐久性について学んだ。コンクリート構造物の維持管理に興味を抱いたのはこれがきっかけであった。
大学院を修了してからは、建設だけではなく維持管理もできる首都高に入社した。入社当初はトンネル構造物の建設に従事していたが、アメリカに留学する機会をもらい、更にコンクリートの耐久性について学びたいと思いカリフォルニア大学バークレー校の門をたたいた。アメリカでは2年間修士課程で学んだが、コンクリート材料のパウロモンテーロ教授にコンクリート材料の材料科学的視点からの基礎と劣化メカニズムを学んだ。材料を多角的視点から見ることができ非常に勉強となった。今自分の礎になっている知識はこの時に築いたものが大きかったかもしれない。
帰国してからは念願の維持管理の部署に配属となった。首都高の橋梁は古いものは建設から50年以上経っている。補修・補強の設計は、しゅん功図書の調査から始まる。昔の図面、計算書や工事記録とにらめっこすると、先人の工夫と苦労が1径間ずつ刻まれていることがわかる。さらに、過去の補修・補強についても、その都度工夫を凝らし設計・施工されてきていることに気付く。これらのバックグラウンドと現在の技術を照らし合わし、最適な補修・補強の設計を行うことが現在の私の責務である。このように、私が橋と出会い、培ってきた知識と技術を発揮できるフィールドが首都高にあると考えている。
帰省した際に父親と橋の話をする。父親がドイツ留学時代に学んだことや、技術継承の話を自分から持ちかける。興味深かったのは、父親が若い頃は上司に1日中現場を見てこいと言われたということであった。現場にいれば作業員に相談され、課題を解決する能力が自然に身につくという話である。日本を代表するPC橋を設計施工してきた父親との話は今でも活きており役立つものばかりである。今の自分は父親が活躍していた時代とは全く異なる課題と直面しているが、問題解決の根本は昔と今で変わってないと考える。土木工学は経験工学と言われるが、一線級で活躍してきた父親には到底及ばないものの、自分は自分なりに橋梁に携わる一技術者として先人が繋いできたバトンを自信を持って後世に引き継げるよう努力したいと思う。
次は、PC工学会で大変お世話になった鹿島建設の藤代学さんにバトンタッチします。

愛知製鋼