百年後の土木のために

木村 真也 株式会社エイト日本技術開発
関西支社国土インフラ部道路・構造グループプロジェクトマネージャー
木村 真也

私は、2004年にエイト日本技術開発(当時の日本技術開発)に入社し、17年間橋梁設計に携わってきました。初めて土木に興味を持ったのは、中学3年のときです。1995年に発生した兵庫県南部地震、私は山口県の自宅で甚大な被害をテレビ画面越しに見ました。当時から将来はひとのために動ける仕事に就きたいという漠然とした思いがあり、復興する様子を見ていくうちに土木に魅力を感じるようになりました。大学では、研究室に配属された4年から修士課程を含めた3年間、地盤工学研究室で基礎の液状化対策や杭―地盤の動的相互作用に関する研究をしました。自分でも意外だったのは、一見泥臭い基礎の世界に思いのほか魅かれたことです。 橋梁と出会ったのは、社会人になってからでした。入社後は、橋梁グループに配属され、2009年から2年半、土木研究所CAESARの橋梁構造研究グループへ交流研究員として出向しました。出向中は、部分係数設計法など橋梁基礎の研究に携わり、その縁もあって今でも日本道路協会の道路橋基礎に関わるWGに参加をさせてもらっています。土研への出向を通して、そもそも橋梁設計とは何か、その考え方を大きく改める契機となりました。 橋梁技術者としての技術力が技術提案を通じて試されるこの世界において、客観的な事実に基づき一貫した意思決定を物語として自らの頭で思考すること、そしてその過程を日本語でうまく会話で成立させることがいかに重要であるかを感じました。設計の結果得られる解は必ずしも一つではなく、基準に縛られているようで、実は設計者自身がもつ哲学が思いのほか大きなウェイトを占めていること、それこそが橋梁設計の醍醐味であると。また、曖昧な部分が多い地盤や基礎の分野において、経験工学と言われるその本質的なところに触れることができました。 地盤や基礎の土台は、先人たちの知恵と経験のもとに成り立っていて、如何にそれらが素晴らしいものであったか、知れば知るほど痛感します。このようなことを実際にその場に身を置いて肌で感じることができたことは大きな収穫でした。 振り返ると、私の技術者人生において、ひととの出会いにとても恵まれてきました。これまで多くの方のサポートを受けながらここまでやってきました。目の前の問題・課題をクリアすることに精一杯で、未来の自分を見失いそうなとき、尊敬する上司にある言葉を掛けられました。そのとき、尊敬する上司の模倣をする必要など全くなく、自分にしか活躍できない場が必ずどこかにあるのだと、そして自分は自分が思う道を進めばよいのだと気付かせてくれました。そのことは今でもずっと感謝をしています。 これからの橋梁設計技術者としての人生を考えていると、20年前、NGOの活動に参加したときのことをふと思い出します。当時、マレーシアの山間部の集落でホームステイをしながら森林伐採の現場を視察しました。あるとき、小高い丘に連れて行かれ、この見渡す限りの森もいずれ伐採され集落で暮らす人々の生活の場が奪われること、伐採した多くは日本に輸出され建設分野で使われることを聞かされました。 土木は人の生活を壊すこともあるが、技術者だからこそ守れるものがあると私は信じています。私は、やはりだれかのために動ける人生を歩みたいと思うと同時に、これまでの経験も含めて、土木の偉大な先人たちが繋いできた意思を百年後の人たちのために引き継げるように、これからしっかり準備をしていこうと思います。 次回は、私が日頃からお世話になっている長大の日高卓也さんにバトンを渡したいと思います。

愛知製鋼