辞表提出からの再挑戦

大森 貴行株式会社オリエンタルコンサルタンツ
海外事業部次長
大森 貴行

会社に辞表を出したのは32歳のころ、私の設計ミスがきっかけでした。当時コンサル業界では技術提案書による競争入札という新しい仕組みが始まり、残業や休日出勤が当たり前の時代でした。いつしか業務の特定やテクリス点の高評価を重視する様になり、技術を軽視してしまったことがミスの原因でした。対応に追われる中、当時の上司に「お前は技術に対するこだわりを失くした」と言われたことを鮮明に覚えています。 そんな中、ミスの対応を通して支社長や副支社長といった一流のエンジニアと協働する機会を頂きました。真のプレゼン力や技術力に触れ、学び直す機会を頂きましたが、休日や深夜に及ぶ残業に心は折れ、最終的に辞表を提出するに至ります。退職間際、支社長や副支社長との面談の中で、社会人としての性根を正され、また、技術者という職業への憧れを呼び覚まされました。同僚への不義や家族への迷惑、様々な反省と共に辞表を破棄し、再挑戦への機会を頂くことになります。 再出発は新たな支社、新たな同僚たちという環境で始まりました。特殊な構造を採用せざるを得ない時もあり、国総研や土研へ技術的な証明を要求されることもありました。自らの力不足から悔しい思いをすることもありましたが「未知の技術をどう証明するのか」また「基準の成り立ちや論理と実証による証明」など、先人たちの積み上げた技術の崇高さ、またその背景にある努力や精神を理解する機会を頂きました。我が国の技術をけん引する論文や技術者との協働を通して〝技術とその精神〟を学びました。 記憶に残る有明海沿岸道路の設計では、学識経験者や日本のトップエンジニアと協働する機会を頂きました。特殊橋梁における独特の難しさや、歴史遺産に今の世代が新たな構造物を建設する意義、また地元住民の理解と主体を引き出す交渉など、〝最適解〟に加えて〝納得解〟を得る難しさを学びました。地元モールで繰り返す説明会を通して「行政の橋(最適解)」から「地元の橋(納得解)」に変わる瞬間を見ることができました。整備局の課長から頂いた「交渉の極意は合意するまで続けること」という言葉は、私のスキルとなり強みとなりました。 入社19年目からは海外事業に関わる機会を頂きました。海外事業は国の重要プロジェクトであるケースが多く、技術的な課題は国家間の政治的な課題に発展することも少なくありません。日々湧き出てくる課題に対しては、全身全霊、神経を研ぎ澄ませて関係者の〝納得解〟を導き出す必要があります。百戦錬磨の上司から「海外事業では問題があるのが常。過去の成功を押し付けては間違いの元。学びなおし、その時々の状況を汲んで新しい決断を繰り返す必要がある」と指導を頂きました。尊敬できる上司、世界のエンジニアと必死に学びながら討議ができる刹那は、その一つひとつが珠玉の経験です。 今、私は多国籍のメンバーからなるチームをけん引する職位にいます。当時の戒めに持ち歩いていた辞表はいつしかなくなり、現在はクレームレターを持ち歩き、同僚たちと課題に向き合う日々を送っています。わたしの行動の一つひとつが日本のエンジニアとして解釈される可能性があることを十分に認識し、先輩たちから学んだことを日本、そして世界の後輩たちに繋げることが今後の目標です。 次回は橋梁技術者を志した学生時代からの先輩、熊本高専のプロフェッサー岩坪要先生にバトンをお渡しします。

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