3大地震を転機とした設計技術者としての歩み

(株)横河ブリッジ設計本部設計第二部長 光田 浩(株)横河ブリッジ設計本部設計第二部長 光田 浩

1995年1月17日、早朝の大きな地震で目を覚ましました。その後、テレビに映し出された阪神高速が横倒しになっている姿を見て言葉を失いました。1991年4月、当時の横河橋梁製作所に入社し、鋼橋の設計業務を行っていた私にとって、高速道路が崩壊するのは映画の中の話であり、現実ではありえないものでした。
橋梁の耐震設計は、地震時の動的な振動現象を静的な水平力に置換して断面力を算出する手法を用いていましたが、兵庫県南部地震以降、劇的に変わりました。地震レベルを2段階とし、地震レベルにより構造物の要求性能を設定し、動的解析や部分的な塑性設計の導入など従来なかった設計を行うようになりました。過去の設計例はありません。どのように設計を組み立てていくかを自分で考えなければならず試行錯誤の毎日でしたが、「設計」の面白さを感じることができました。 その後始まった第二東名神高速道路工事では、プレキャストPC床版を用いた少数鈑桁構造が採用され、その後も連続合成桁や開断面箱桁といったあまり例のない橋梁形式の設計担当を務めることとなりました。
解析ソフトがないため、設計方法を確立させた後、自分でプログラムを作り設計を進めました。この頃は非常に忙しく、正月を返上して業務を行いましたが、疲れより楽しみのほうが多かったと記憶しています。
東北地方太平洋沖地震には、千葉にある本社に設計課長として赴任していた時に遭遇しました。東北地方太平洋沖地震では、兵庫県南部沖地震と違う衝撃を受けました。津波です。海からの濁流が街を襲い、建物を飲み込んできました。橋梁の被害もこれまでの経験では考えられないものでした。橋脚が崩壊して上部工が落橋したもの、津波の水圧により流出したもの、増水により上揚力が作用して桁が持ち上げられて流出したものなどがありました。
津波に関しては、立命館大学、伊津野教授を会長として活動している鋼構造研究会で勉強する機会をいただいており、実構造物に対してどのような対策が可能なのかという検討を行っています。 3つ目の地震は昨年4月に発生した熊本地震です。一昨年の10月に大阪の保全設計部長として赴任していたことから、九州自動車道路の復旧工事に携わることとなりました。橋梁の設計は一人でできるものではありません。社内では部門ごとにチームを作り、社外の工事に携わる関係各機関と協力して仕事を進めます。
地震の復旧工事といった緊急対応では、発注者と民間企業、時には教育・研究機関などがタッグを組んで、要求される品質と工事工程を守るため様々な協議を行い、タイムリーに決定していかなければなりません。本工事では設計管理技術者として業務に従事しましたが、最高のチームで設計を進めることができたと思います。そうでなければ、設計開始から1か月で仮復旧して開通させ、下り車線を半年で復旧させることなど不可能だったと思います。
3つの地震は、設計技術者としての取り組み方や考え方の転換期になりました。補修、補強といった保全分野がますます重要になってくるこのタイミングで、熊本地震の復旧工事に携われたことには運命的なものを感じます。新設とは異なった技術が必要であり、より専門的な知識を要求される分野であり、新しいやりがいを感じています。 次は、文中で紹介しました鋼構造研究会で長年お世話になっている、立命館大学理工学部都市システム工学科、野阪克義教授にバトンを渡したいと思います。

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