「『縁』あって・・・」

山田 尚之日本車輌製造株式会社
輸機・インフラ本部技術計画室長
山田 尚之

「土と木をあつかう学問? 何を勉強するところ?」と言うのが大学の土木工学科進学時の第一印象でした。当時、流行りであった「電気・電子工学科」や「情報工学科」に進もうと思っていたので受験に失敗して「土木工学科」へ進学となった時には、大学に行く意欲が非常に低くなったことを覚えています。 動機がはっきりしない中での大学生活でしたので、土木の世界には馴染めず、将来像も全く思い描けていない学生でした。 そんな燻ぶった学生生活が3年余り続いた後、4年生の研究室配属では、構造力学だけは得意であったこともあり、構造研究室を希望し、配属となりました。 今思えば、この研究室への配属と指導教員との『縁』が橋梁の世界に足を踏み入れるきっかけだったと思っています。 研究室配属後間もなく、指導教員に「就職先はどうする?」と聞かれましたが、土木の世界に馴染んでいなかった私は、これといった希望職種もなく「公務員試験を受けます」と即答しました。すると「公務員試験を受けるなら、どうせ勉強しなくてはいけないのだから、名古屋大学の大学院を受験してみたら?」との助言をいただき、公務員試験と大学院試験の両方を受けることにしました。結果はどちらも合格をいただくことがでましたが、公務員になるか、進学するかでかなり迷いました。 最終的には進学の道を選びました。結論を出したきっかけは、指導教員からの強い勧めもありましたが、一卵性双生児の弟の存在が大きかったです。彼は兄弟というよりは良き友であり、互いを切磋琢磨して高め合う良きライバルでもありました。その彼が、早々に進学を決めていたこともあり、私も進学する決心をしました。 進学後も大学時代と同様に構造研究室に所属しました。他学からの進学でしたので、新たな指導教員、先輩、同級生と非常にたくさんの『縁』をいただき、研究生活を支えていただきました。大学・大学院と、鋼製橋脚に関する研究を手がけたことから、将来の進路として「橋屋になろう」という思いが芽生え、1996年 日本車輌製造株式会社に入社し、橋梁事業を担う鉄構本部(現:輸機・インフラ本部)に所属となりました。 入社から17年間、設計畑を歩み多数の鋼橋設計業務に従事させていただきました。今思い出される案件の中に、静岡県内の河川に架かる第二東名高速道路の11径間連続少数箱桁橋の橋梁工事があります。設計JVに出向する形で、設計業務に携わり、動的解析による耐震設計を担当し、曲線橋で分岐桁を有し、桁本数も変化した特殊な構造であったことから、客先担当者をはじめJV構成メンバーとあれこれ試行錯誤しながら業務を進めたことが思い出されます。 また、つくば市に架かる首都圏中央連絡自動車道の7径間連続複合ラーメン橋の工事では、鈑桁とコンクリート橋脚との接合部において、有限要素解析を用いた検討を行い、鋼板とコンクリートの応力伝達メカニズムの解明に多くの時間を費やしたこともありました。両工事とも非常に苦労が多かったのですが、橋梁技術者として、技術的にも、人間的にも大きく成長することができた工事だったと感慨深いものがあります。 早いもので橋屋になって25年目になりました。進学するのも橋屋になるのも工事に携わるのも全てに『縁』があったのだと感謝しています。 また『縁』あって今年度から母校の橋梁工学の非常勤講師をお引き受けすることになり、もともと橋に全く興味の無かった私が、根っからの『橋屋』になったという経験から魅力を伝えることで、将来の『橋屋』を育てる一助になればと思っています。 次回は東海構造研究グループ(SGST)の幹事時代にお世話になった、名城大学 渡辺孝一先生にバトンをお渡しします。

愛知製鋼