今日この頃、思う事・・・

株式会社杉孝
橋梁営業部橋梁営業所所長
濵野 圭太

このコラムは橋梁という構造物に携わる色々な方々の知識・経験や苦労、また強い思い入れなどを書き連ねる大切な場所であると、感じながら毎回拝読させて頂いている。まさか私に出番が来るとはまったく想像出来ておらず、正直何をどう書けばよいのかというのが本音である。 橋梁に関する設計や計画、もちろん工事や施工経験などなく、ましてや橋梁というものに、足場の現場営業という形でしか携った事がない私が、ここに投稿し書かせて頂くことに戸惑いは拭えないが、このような機会を頂けた横河ブリッジ:高橋様への感謝と、橋梁という構築物の建設・補修という工事の一片において、足場材を通じて関わる事が出来た事に対する想いを、ほんの少しでも伝える事が出来ればと、乱文乱筆ながら書かせて頂く事にした。 私の勤める杉孝は建設現場で用いる仮設機材(一般に言う足場)をレンタルしており、関東をメインに東は東北から西は関西圏まで拠点展開を図り、全国のあらゆる建設現場(海外案件への出荷実績も含め)に、足場を提供させて頂いている来期創業70年を迎える足場レンタル会社である。 知っている人は知っているが、知らない人は、まったくと言ってよいほど触れることがないのが足場材である。ただ何の変哲もない鉄のパイプ(単管パイプ)や、クランプ(緊結金具)といった足場材が、私と橋梁を結び付ける事となり、この足場材を通じて私は多くの橋梁現場に関わらせて頂いた。現場で出会い橋梁というものに触れさせて頂いた沢山の方々、またそのような事を感じさせてくれた会社(杉孝)と足場材への想いは、ここで書き連ねる事は難しいほどのものがある。 二十数年前、当時の上司から「どの業種の現場営業がやりたいのか?」という何気ない質問。迷わずして「橋梁やりたいです!」と即答した。理由は橋梁というビッグプロジェクトに関る営業がしたい、ただ純粋にそんな想いから出た言葉である。 その一か月後、大型案件が活況であった名古屋への単身赴任が決定。だが、いざ名古屋へ着任すると、そこにいた当時の上司はプラント工事の実績が強く、製鉄所や火力発電所、石油備蓄基地などプラント工事を中心に営業するような指示。当時、名古屋を中心とした中部エリアでは、愛・地球博や中部国際空港など建設工事が数多くあり、中でも橋梁は第二東名・第二名神高速をはじめとした大型案件が目白押し。 この大型橋梁工事を黙って見ている事は出来ず、またタイミング良く上司も他部署へ異動となり、当初営業していたプラント工事のお客様はすべて部下へ引き継ぎ、すぐさま橋梁の建設現場(橋梁メーカー様)へ営業を開始。私の橋梁との関わりはこれをきっかけにスタートする事となる。工事情報からの店社訪問、現場代理人・計画担当者への訪問営業、仮設足場計画の提案・打合せ、図面からの(足場)数量の拾い出し、見積書作成等、営業した現場からまたその先への現場と、来る日も来る日も営業に明け暮れる毎日。ただ当時、中部エリアでは後発企業であった当社。『やられる前に先にやる』をモットーに、他社に先駆けた行動を仕掛けた事で、市場を荒らす厄介者と、他社から目を付けられる事も度々あったが、そんな事にもへこたれず、ただ現場を駆けずり廻った。 結果、当時の大型工事であった第二東名・第二名神高速道路をはじめ、東名阪自動車道等のちに中部圏において動脈となる主要インフラ案件で、多々当社の足場を採用頂く事となり、ようやく本当の意味で橋梁との関りを持てる事となった。いざ触れ合ってみて改めて、橋梁という構築物の壮大なスケール感、街と街・人と人をつなぐという魅力、生活や産業の基盤となり後世にも残る構造物(橋)との関りは、他の建設現場への営業では得られる事のない充実したものとなった。(あくまで私個人の感想である) それは社会人30年生になった現在でさえ、変わる事なく橋梁現場営業を続けている事が何よりの証である。橋梁ばかと言われても、橋という構造物・そこに関連する色々な方々と触れ合いながら、このまま社会人人生を終えたいと切に思う今日この頃である。 こんな私が次回紹介させて頂く方は、橋梁に関われる事となった現場(第二東名)からお付き合い頂き、その後も色々な面でご指導頂いているJFEエンジニアリング一瀬康宏様です。 ▽訂正 8月21日付の岡寿一氏の所属は鹿島建設です。訂正してお詫びします。

愛知製鋼