多くの経験を通して

左東 有次株式会社富士ピー・エス
執行役員技術センター長
左東 有次

私が橋梁に関わりを持つようになったのは、1986年に富士ピー・エスに入社した時から始まります。大学では、土質研究室に所属し、火山灰質粘性土の安定処理の研究を行っていましたが、目に見える構造物である橋梁建設に携わりたく当社に入社しました。 入社後は、最初に瀬戸中央自動車道の菰池高架橋に約1年間勤務しました。本橋は橋長約550メートルのPC連続合成桁橋で、私は主桁製作を担当し、約90本の主桁を現場で製作しました。最初は図面の見方も分からず、先輩の後をついてばかりでしたが、諸先輩のご指導のおかげで数か月後には桁製作を1人で担当できるようになりました。この経験は、その後PC橋の設計を行う上でたいへん役立ちました。 その後の会社での業務は、PC橋ばかりでなく、PCタンク、PC矢板、PCフレームアンカー工法など各種のPC構造物の設計や開発を担当しました。 社内の業務以外でも、二つの貴重な経験をさせていただきました。一つ目は、1992年に東京大学のコンクリート研究室で約1年間受託研究員として勤務し、岡村甫先生はじめ多くの方々にハイパフォーマンスコンクリートの配合、製造、施工などについてご指導を戴いたことです。この経験は、工場製作のPC製品に使用するプレテンション用高流動コンクリート(3H―CRETE)の開発につながりました。また、同時期にゼネコン、セメントメーカー、混和剤メーカーなど多くの若手技術者の方が受託研究員として勤務され、皆様と親交を深められたことは、地方に勤務していた私にとって貴重な財産になりました。 二つ目は、1999年7月から2001年3月まで、九州大学の橋梁研究室で助手として勤務し、太田俊昭先生や日野伸一先生に御指導を戴き、鋼コンクリート複合構造などの研究をしたことです。PC構造のみに従事していた私にとっては、鋼構造やFRP構造などについても学ぶことができ、その後のPC構造物などの研究開発を行う上でたいへん役立ちました。 一方、業務においては、2度の大地震が強く印象に残っています。 1995年の阪神・淡路大震災では、山陽新幹線の復旧工事や阪神高速道路の3号神戸線の復旧工事に従事しました。山陽新幹線の復旧工事では、地震の1週間後に被災地に入りましたが、地震による橋梁や建物の被害の大きさに驚愕したことや、一日も早い新幹線の開通を目指して余震の続く中でPC橋の復旧工事を行ったことが今でも思い出されます。 2011年の東日本大震災では、地震の約1か月後にPC建協の現地調査に参加しました。気仙沼市や南三陸町の被災橋梁を調査しましたが、現地では津波で流失した家屋や橋梁などの被害の大きさに呆然とし、その場に立ちすくんだことを憶えています。 地震国日本においては、耐震性に優れた構造物を造ることは当然ですが、その耐震性能を常に維持する耐久性を有する構造物を造ることも重要です。 今後はこれまでの経験を活かして、耐荷性、耐震性および耐久性を有し、さらに脱炭素・低炭素につながるPC構造物の開発に取組みたいと思います。 次は、各種の協会活動でお世話になっています、三井住友建設の諸橋明様にお願い致します。

愛知製鋼