思えば遠くへ

藤原 規雄株式会社国際建設技術研究所
東大阪支店長技術部長
藤原 規雄

1988年の入社以来、ずっとコンクリート構造物のメンテナンスに関わる仕事に従事しています。対象構造物や業務の内容は様々で、時には鋼部材も相手にしますが、コンクリート橋の調査業務が多くを占めます。メンテナンスの仕事はよく医者に例えられますが、物言わぬ構造物を相手に損傷の原因や劣化の過程などを推測するのは、探偵の仕事に近いように思えます(現場での作業は警察の鑑識ですが)。 私が仕事を始めた頃はバブル景気の最中で、大きなプロジェクトが各地で進行していました。道路橋床版の抜け落ち、ASRや中性化による劣化、英国でのPC橋の落橋やNHK「コンクリートクライシス」(1984年)の放映などもあって、維持管理の重要性が広く認識されるようにはなっていましたが、予算の配分は建設優先。阪神高速湾岸線の大型橋梁の建設現場などを見て、「やっぱり花形は橋梁架設だよな」と羨望の念を抱いていました。瀬戸大橋の全線開通や明石海峡大橋の着工もこの頃でした。 そうした中、90年代半ばに大きな変化が訪れました。94年に大阪府内の道路橋で横締めPC鋼棒が破断・突出し、PCグラウトの調査が全国に広がります。主ケーブルの調査にも展開して、現在もまだ続いています。 95年1月には阪神・淡路大震災が発生。私も翌日には阪神高速神戸線の下を歩きました(宙吊りのバスや橋桁の下敷きになった車両、横倒しになったピルツ橋の光景などは生涯忘れることができません)。即座に道路や鉄道の応急復旧が始まり、昼夜の別がない日々となります。 私は、中国道の復旧工事の現場に呼び出され、損傷した橋脚群の挙動計測を命じられました。ベントで仮支えされた橋脚のたもとで、工事を指揮する監督に「緊急車両を通すから、橋脚が少しでも傾いたら即座に連絡しろ」と怒鳴られ、それから2週間近く現場に張りつくことになりました。 その後は阪神高速道路公団(当時)の本社に常駐し、橋梁の被害状況のとりまとめや監督省庁への報告資料の作成などに明け暮れました。自社の現場もあって目の回る日々でしたが、震災とその復興の渦中に身を置き、改めて道路や鉄道などの社会インフラが産業や人々の暮らしを支えていることを実感するとともに、「自分の仕事もその一翼を担っているんだ」との気概と責任感が醸成されました。 地震で止まっていた建設工事が再開すると、新設橋の業務が多くなりました。山陽道や阪神高速の架設現場での計測業務のあと、舞台は次第に東へと移り、伊勢湾岸道や新東名での挙動計測や構造実験が続きました。世界最大級の一面吊り構造の矢作川橋(4径間連続PC・鋼複合斜張橋)では、製作費だけで2億円と言われた1/2スケールモデル試験体による載荷試験が行われ、その一端を担うプレッシャーに体が震えました。一方、この頃、道路橋や鉄道橋の橋脚でASRによる鉄筋破断が発見され、これに関連する調査にPCグラウトの調査も加わり、全国各地を飛び回りました。 2000年代後半からは凍結防止剤による塩害問題です。現況把握のために、今度は中国地方の山間部の橋梁を転々。NEXCO西日本では特殊橋梁の耐震工事が進められており、これの足場を利用して平時には接近困難な橋梁も調査しました。宇佐五橋など建設時にエポックメイキングだった大型橋梁では、難工事に挑んだ先人らの苦労に思いを馳せました。 すでに、部分的な補修では対応できないほど劣化が進んだ橋梁も多くあり、NEXCO各社は大規模更新・大規模修繕へと舵を切ることになりました。他の高速道路や鉄道各社も同様の流れとなり、わが社も現在はこれらに関連した業務が多くなっています。 わが国では、高度成長期に整備された膨大な社会インフラが、大規模な改修や更新を必要とする時代になりつつあります。これらを一気に更新することは不可能であり、これまで以上にメンテナンスが重要となるでしょう。名探偵にはほど遠い私ですが、これまでに得た知見と経験を活かして、維持管理の面から社会インフラを支える一助になりたいと考えています。 次は、古くからのお付き合いで、戦友のような間柄のピーエス三菱の田中寬規様にバトンをお渡しします。

愛知製鋼