橋に関わる喜び

久後雅治協和設計株式会社
代表取締役社長
久後 雅治

一昨年の5月、〝「人間回復の橋」開通から30年〟というニュースの見出しが目に留まりました。国立ハンセン病療養所がある瀬戸内市沖の長島と本土を結ぶ邑久長島大橋が開通から30年を迎えたことを伝える記事でした。ニュースは記念式典の様子や、〝長年の悲願だった。言葉に表せないほどうれしかった。〟との自治会長さんの言葉を報じていました。私の橋歴書の中で最も印象深い橋の一つが邑久長島大橋です。
今から約30年前の1988年、当時28歳であった私は大学卒業後入社した川鉄鉄構工業で、邑久長島大橋の設計担当者のひとりでした。学生時代に松本清張原作「砂の器」の映画を見てハンセン病患者が差別を受けていたこと、離島に隔離された病院があることを知りました。それ故、島民にとって長年の悲願であった架橋プロジェクトに自分が携わることになり、身の引き締まる思いでした。邑久長島大橋はアーチ支間長135メートルのランガー桁橋です。本土との離隔距離わずか30メートルを跨ぐこの橋は、島民にとっては「人間回復の橋」でした。
思い起こせば、海に架かる橋を設計したいと思い、立命館大学では故伊藤鉱一先生の卒研に入り、ランガートラス橋の設計を試みました。ポケコンで設計計算し、ケント紙に製図版とT定規を使ってロットリングで墨入れした図面を描きました。その時、アーチ橋に不思議な魅力を感じ、就職して実際にアーチ橋を設計することが私の夢となりました。
邑久長島大橋は、フローチングクレーン(FC)で600トンの橋を吊り上げたまま兵庫県から岡山県まで約60キロを海上運搬されました。吊り上げ時は橋の支点が完成時と異なるため吊材を補強し、命綱となる吊り金具は形状、取り付け位置や角度を過去の事例を調べながら慎重に設計しました。会社初の一括架設でしたので、念には念を入れ実際に吊り上げた時の実応力と変位を測定し、安全であることを確認しました。岸壁でFCに吊り上げられた橋の下フランジが架台から〝ふわっ〟と浮き上がる瞬間は、とても緊張したことを今でも鮮明に覚えています。
架設地点到着後は、長島の病院の方々に見守られる中、FCで吊り上げたまま一気に据え付けられました。一日にして本土と長島が陸続きになり長島の皆さんが喜ばれているのを見て感動しました。開通30年を迎えた今も橋が多くの人々に感謝されていることを知り、技術者冥利に尽きると感じました。
1996年36歳の時に協和設計に入社しました。数年後には入札契約方式が大きく変わり、技術提案型に取組み始めました。中でも記憶に残っているのは2001年の大和御所道路庵治北高架鋼箱桁橋のプロポーザルです。私たちは技術提案力で大手と競えると意気込んでいました。ワイワイガヤガヤと社長まで加わって、コスト縮減や施工性向上案を議論し、一字一句までこだわって仕上げました。その時から文章主体の提案書の書き方を大胆に変更し、イラストを用いてビジュアルにしました。既往資料の閲覧から始まり、現場踏査や提案内容の議論は、締切に追われながらも技術者としてやりがいがあり、その努力が実り特定された時の喜びはひとしおでした。自分たちの提案が認められ、設計した橋が実際に出来上がることは建設コンサルタント技術者の醍醐味です。
私が今まで経験した橋に関わる仕事は、土木技術で社会に貢献できる喜びを教えてくれました。若い土木技術者の皆さんにも、是非そのような喜びを経験して欲しいと願います。次は、大学の同期である中央復建コンサルタンツ株式会社の兼塚卓也さんにバトンを渡します。

愛知製鋼