橋の設計を生業として

西川 貴志株式会社片平新日本技研
東北支店支店長
西川 貴志

これまで、橋の設計を通じていろいろな経験をさせて頂きました。僭越ながら、その幾つかを紹介させて頂きたいと思います。 入社1年目、最初の仕事は、3径間連続曲線鋼箱桁橋の床版打設検討でした。床版との合成効果やコンクリートの材令を考慮して格子計算と断面計算を繰り返す検討で、新入社員の私でも比較的理屈を理解しやすい仕事でした。1カ月程度で検討が終わり、上司とともに客先である床版施工会社に説明に行きました。 私は一言も発せず、上司と客先が話をするのを聞いていましたが、専門用語と東北の方言でほとんど理解できなかったのを憶えています。それでも、「○万円の稼ぎだよ」と言われたときは、もしかしたらこの仕事でやっていけるかも、と感じました。自分のした仕事で客先から感謝され、報酬を貰う、これがプロなのだな、と生意気ながら思いました。 そして3年目、仙台に転勤となり、それなりに設計を任されるようになりました。最初に担当した橋梁が幸運にも東北地方整備局の局長表彰を受けましたが、設計が評価されたというより、上司がRC充腹式アーチ橋を推奨したアイディアが評価されて受賞できたものでした。 この橋は、設計計算・図面作成・数量計算等、設計のほとんどを私自身が行った思い出深い橋でもあります。何とか橋の設計ができるという自信を付けさせてくれた業務でした。 16年目、最も衝撃的な出来事が起きました。東北地方太平洋沖地震です。私自身、今も会社が入居しているビルの11階で被災しました。窓際の席に座っていましたが、机もろとも外に放り出されるのではないか、と感じるぐらいの激しい揺れでした。それから数か月間、震災関係の仕事に従事することになるのですが、4月7日に発生した震度6強の余震は、私の仕事の予定を一変させました。岩手県奥州市周辺で本震より大きな被害をもたらし、北上川を渡河する小谷木橋ほか2橋の災害復旧設計を担当することとなったのです。 新小谷木橋の予備設計(小谷木橋の架替え)を受注していた当社が、管内橋梁の緊急調査対応したことがきっかけでした。小谷木橋は、その後の調査でケーソンの頂版が外壁の中に落ち込むようにずれて傾いているのが見つかり、土木研究所が現場立ち合いを行うなど、当時それなりに話題になった損傷が生じていました。設計、積算、施工が同時進行で、応急復旧後の交通解放や、本復旧も含めた災害査定の日程が私の意志とは無関係に決まりました。 あまりの忙しさに、心が折れそうになりましたが、辛うじてモチベーションを保つことができたのは、周辺住民の生活のために役立っているという充実感でした。橋が架かるときはいつも喜ばれるものですが、このときほど待ち望まれていると感じたことはありませんでした。 この経験から、我々が技術向上に取り組む目的は、災害等の緊急事態に対応するためでもあると考えるようになりました。 なお、昨年の5月31日に新小谷木橋が開通し、小谷木橋は無事役割を終えました。震災後の約10年、周辺住民の重要な足としてよく頑張ってくれたと思います。 さて次は、岩手県の簗川ダム付替え10号橋(現落合橋)でお世話になったIHIインフラシステムの林基樹さんにバトンをお渡しします。この橋は3径間連続複合ラーメン橋で、橋脚から合成2主鈑桁を張出し架設する(しかも主桁フランジが現場溶接)という非常に難しい条件でしたが、見事に施工頂きました。

愛知製鋼