行き着いた先はメンテナンス

麻田 正弘アルスコンサルタンツ株式会社
取締役副社長執行役員 技術本部長
麻田 正弘

大学を卒業し金沢市に本社のある建設コンサルタントに就職し三十数年が経った。この業種を選んだのは土木の仕事はやりたいが現場勤務は嫌だという理由からである。入社当時、地方のコンサルタント会社は発注者のお手伝い的な立場でもあり若造一人で打合せに行ってもよい雰囲気があった。青焼き図面に鉛筆書きで描いた計画図を持ち打合せに臨むと年配の発注担当者の方々から大変手厚い教育的指導を頂きその場で計画変更の方向性を理解し、そのまま会社へ持ち帰り手直しし、再び発注者の審判を仰ぐ場に臨むという、こんな日々の繰り返しを十数年近く過ごしていた。 この間とくに専門とする分野もなく、道路設計、橋梁設計、河川構造物設計、トンネル設計、ひいては地質調査業務まで、技術基準類を小脇に抱え、会社にある設計事例を机の横に置き、忙しい先輩社員を捕まえて日々目の前にある仕事を黙々とこなしていた。 このような特に専門を持たなかった私にも二つの転機が訪れた。それ以降、橋梁設計が自分のおもな業務となっていった。一つ目は1995年(H7年)兵庫県南部地震であり、二つ目は2000年代に入りその重要性が認識され2012年トンネル天井板落下という悲惨な事故により国を挙げての取組みが始まったインフラメンテナンスである。 兵庫県南部地震では震災直後に通達されたH7復旧仕様、引続き制定されたH8道示で構造物の塑性領域に踏み込んだ設計がそれまで以上に必要となり、構造物の損傷の進展過程を載荷実験で実証された手法により進めるものであった。その当時、既設橋の耐震補強設計に多く関わるようになり、それまで構造物は適度な安全率を持たせ壊れないように設計するものであったが、そうではなく構造物を意図した箇所でどれほどの損傷と変形で制御していくかという設計に大いに興味を持った。橋脚柱を耐震補強したがその基礎である既製杭を何とかレベル2地震動まで耐えられないか検討した業務、橋脚フーチングをレベル2地震動の耐力まで向上させるためフーチングを削孔してPC鋼材で補強した業務など、国の機関をはじめ様々な方から意見を頂き進めたものが印象に残っている。 二つ目の転機となったメンテナンスでは、もともと北陸地方は飛来塩分や凍結防止剤散布による塩害、反応性骨材を用いたASRの問題、またそれらの複合劣化などコンクリート構造物にとって厳しい環境条件に曝される地域であったためメンテナンスへの関心が高かった。私も劣化橋梁の補修補強設計を手掛ける機会が多くなり、損傷が著しい塩害PC橋へ補強を施したうえで電気防食を適用したもの、橋台を支える海中にある基礎コンクリートがASRで劣化し支持力が不安定になったため鋼板巻き立てで補強したものなど、これらは施工後の長期モニタリングを前提としたものであった。モニタリングは北陸SIPの大学等の先生方や専門業者と協議し対策工が設計通りに効果を発揮するか評価するために計画したもので、メンテナンス技術はこれなら絶対というものがない場合も多く、産学官の連携による技術開発とその検証を継続的に行っていくことが大切であることを認識した。 この経験からインフラメンテナンスは地域の産学官の連携によるネットワークが重要だと考えるようになり、民間の技術開発、大学等の研究成果、そしてインフラ管理者である地方自治体によるアセットマネジメントの実践、これらを一つの地域ブロック内で連携させることで膨大なインフラを維持管理する仕組み作りを実現させ、次世代への負担を軽減させていくことが大切であると考えている。私もそのような連携の一助になればと思い、もう少し頑張るつもりである。 次は、大学の同期である株式会社長大の野本昌弘さんにバトンを渡します。

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