人とのつながりを大切に

上田博士瀧上工業株式会社 生産本部
設計グループ 部長
上田 博士

愛知県内にある橋梁鉄骨のファブリケーターの瀧上工業に入社し、来年で30年の節目を迎えます。気が付けば近い所が見えづらく、遠い所も見えづらく、白髪が増え、平らな所でつまずくようになりました。入社の動機は、橋の設計がかっこよく友達に自慢できると思ったことと、自宅の比較的近くに会社があって運命を感じたことでした。  初めの1年は設計課に配属しましたが、その後2年間は瀧上建設工業に出向し架設計画と現場施工管理を学びました。そして設計課に戻って詳細設計等を経験し、生産管理課で製作を学びました。その後技術開発室で開発と提案の経験をし、今は設計グループに戻って実作業をしつつ若手の指導をしています。これまでに得た知識や経験と知り合ったたくさんの方々との人脈が、私の貴重な財産であり今の私を支えています。以下に代表的な業務と思い出を紹介します。  25歳の時、ケーブルエレクション直吊り架設によるアーチ橋の架設計画と現場施工管理を経験しました。初めて行う計算なのでアースアンカーの必要定着長や主ケーブル必要長の計算が不安で架設が終わるまで緊張の連続でした。27歳の時、兵庫県南部地震で損傷した国交省の浜手バイパスの架替えと補強の設計をしました。この時期は鋼材がとても貴重でした。そして工程も厳しく図面作図途上の段階で数量を拾い、不安な中材料手配したことを覚えています。  28歳の時、本四公団の設計で今治に1年間の出向が決まったため、行く前に婚約し帰ってから結婚式を挙げました。その後すぐに阪神高速の裏面吸音板設置工事で尼崎へ出向したので、新婚生活はしばらくありませんでした。30歳代は仕事が楽しく精力的に働いた時期でした。名古屋高速、首都高速、東日本高速の詳細設計、鉄道・運輸機構の北陸新幹線、常磐新線の橋の設計照査を担当しました。  43歳の時に東北地方太平洋沖地震が発生し震災調査で各地を回りましたが、石巻市で見た悲しい光景と臭いは今も忘れません。その後、岩手在住でボランティア活動していた友人から「被災した小学生で文房具が不足し集めている」と聞いたので、私は社員に呼びかけ、水彩絵の具セットと書道セットを20セットほど集めて釜石市の鵜住居小学校の子供達に届けてもらいました。  44歳の時、浜松市にある1965年に建造された歩道の吊り橋が、主索の破断で崩落しかけ直下の国道が通行止めとなったため、現地へ急行し撤去計画の立案と現場施工管理を担当しました。橋の主索と吊り索が信号機に絡んでいたことや地形が複雑であったことから、吊上げて元の高さに戻し分割撤去することとしました。マスコミの方々が毎日来られて注目されていたことや国道の早期開通が求められて重圧を感じていましたが予定より早く終えて近隣の方々から感謝の言葉をいただき、この経験に私も感謝しました。  現在は1934年に建造された上武大橋をリニューアルし、日比田調整池管理橋として使用する埼玉県の移設工事に携わっています。本橋は鋼トラス橋で、太平洋戦争時に受けた機銃掃射の弾痕があって歴史的価値があります。物を大切にする取り組みで、地元の方々の思いを残せて意義深く感じております。これからも仕事を通じて人とつながる楽しさと達成感が得られる魅力を若い人に伝えていきます。  次は23年前の今治の設計時代に設計だけでなく麻雀やギターも教えていただきました多才で尊敬しているIHIインフラシステム大畑和夫さんにバトンをお渡しします。

愛知製鋼