古きよき時代の想い出

濱口 憲康株式会社日設コンサルタント
技術士(建設部門)
濱口 憲康

私は1986年に大学を卒業し、道路会社勤務を経て今現在地元である福岡県の建設コンサルタント会社に勤務しています。ここで紹介する話は、昭和から平成へと時代が変わった頃の古きよき時代の想い出です。登場する関係者に迷惑がかかる内容ではないのですが、やや脚色していることや私の記憶の曖昧さもあることから、イニシャル表記とさせていただきます。登場人物は、新米社員の私(20代後半)、発注者のI課長(50歳前後)及びT主査(30代後半)です。 入社3年目の私は、ささやかな渓流に計画された小さな橋梁の担当を任されていました。時代は、バブルのにおいが漂う平成初期のイケイケの時代です。渓流に計画された橋梁ですから、おそらく発注は河川砂防課だったと記憶しています。福岡県と大分県の県境に近いB土木事務所発注の業務です。測量が完了し、関係者一同で合同協議が行われた頃から話を始めさせていただきます。
卓上には終わったばかりの測量図面が置いてあり、通常であれば設計条件の確認を行う段階です。自己紹介が終わり発注者のT主査が計画の概要を説明していた最中、お構いなしに手に三角定規2つ抱えやわら登場したI課長、動揺するT主査を尻目におもむろに縦断図に線を引き始めます。やや時間が経ってやり遂げた表情のI課長、それを見守っていた一同を前に、「よし、これで基本計画は完了だ!」と言い放つと後は任せたとばかり悠然と退場してしまいます。唖然とした空気が漂う中、慌てたT主査が本案を基本計画に作業を進めるようにと取り繕うように説明し合同会議は終了です。(やや脚色していることご容赦お願いします)補足しますが、この時代の年配の発注者は設計や施工に精通された方が多く、何も珍しいことではなかったと記憶しています。ともかく、I課長が策定した縦断計画を基に設計することになりました。 橋梁計画も終盤にさしかかった頃、T主査から連絡がありました。以下は橋台の取り付け計画での電話連絡のやりとりです。(T主査)「取り付け計画がよくわからないのだが、説明してもらえるかな」。(新米社員の私)「ここがこうですので、このように計画しています」(T主査)「そのようにはならないと思うよ。こんな感じに計画すればうまくいくのではないかい」今振り返れば、T主査が説明している内容が正解なのですが、そう簡単に引き下がるわけも行かず必死の抵抗を試みる新米社員の私。補足説明ですが、図面も数量も手書きの時代、工期が逼迫している中で簡単に了承するわけにはいかない状況があったと思います。言うことを聞かない私に困り果てたT主査から「今から来なさい。説明するから」と優しく言われ、取り付けの方法の説明を聞くだけで、福岡市からB土木事務所に行くことになった私。道路網が整備されていない時代、B土木事務所に行くだけでも片道3時間程度かかっていたと記憶しています。今であれば、メールのやりとりで片付く内容ですが、逼迫した状況と内容を理解していない私の状況を考え、やむを得ない判断をされたのだと思います。その後の展開はご想像通り、T主査から取り付け方法以外の内容も親切にアドバイスをいただき、どうにか工期内に設計を完了することができました。
以上の話は、今から30年ほど昔のよき時代の想い出です。I課長が基本計画を策定し、T主査のアドバイスをうけ新米の私が設計に携わった橋は、今でもささやかな渓流を渡る地元の方が利用する道の一部になっていることでしょう。このような想い出は、一つ一つの業務に大小の差はあれあるもので、その時々にお世話になった方々を想い出します。今や私も還暦手前の年齢になり、仕事人生の終盤にさしかかろうとしています。最後に、お世話になった方々から受けた恩恵を感じながら、次世代の若い方々に経験を継承していけるよう今後も精進する所存です。次回は、福岡県で活躍されています田中智行氏にバトンをお渡しします。

愛知製鋼