多くの人に支えられて

大畑 和夫株式会社IHIインフラシステム
橋梁技術室設計部 主幹
大畑 和夫

私が橋を架ける仕事に就きたいと考え始めたのは高校生の頃だったと思います。学校が西宮市の高台にあり、晴れた日には教室から大阪湾が一望出来たのですが、授業も聞かずにぼんやりと外を眺めるその視界の中に、異様な大きさの赤い構造物があるのが気になっていました。高校入学直前の1974年に供用が開始された阪神高速道路の港大橋です。これだけ離れた所から見ても圧倒的な大きさと存在感、こんなものを造って残すことが出来たら、と思うようになったきっかけです。 この頃から将来の仕事として大きな橋を造りたいとの思いが強くなり、大学は工学部の土木工学科に入学し、研究室のリストに「橋梁工学研究室」という名前を見つけてそこに配属させていただくこととなりました。当時の研究室の教授は白石成人先生で、ここで構造物の耐風性に関する研究をさせていただきました。 卒業の際の就職先の相談では、会社全体で橋梁製作に携わっている橋梁ファブリケーターを希望して、当時の松尾橋梁に入社しました。 入社後は、設計、架設、工場と、一通り全ての部署を回る中で、記憶に残っているのは、入社三年目に経験した高知県の逆ランガー桁の斜吊りによる架設計画です。 剛性の小さなランガー桁のアーチリブの上に補剛桁を偏載させた時の変形が無視できず、これを止めるためにスパンドレルに形状保持材を追加する事としたのですが、ステップ毎の変形に伴うブレース材の寸法精度の管理方法、補剛材に生じる水平力の対策に苦労した覚えがあります。 その後1993年の夏から一年余り、米国の建設会社に出向する機会をいただき、ここでPC桁の架設や補修工事を経験しました。当時の米国では既に維持管理や補修に着目した試みが各種実施されており、橋面にLMC(ラテックス改質コンクリート)舗装を部分的に採用しての比較検討や、本線を供用しながらのオーバーパス全体のジャッキによる嵩上げ工事など、多くの貴重な経験をさせていただきました。 帰国の翌年に発生した兵庫県南部地震は、神戸在住の私にとっては公私ともに本当に大きな出来事でした。阪神高速神戸線の復旧工事では、中央柱が崩壊した建石交差点の神P55橋脚について、残存したRC側柱に、横梁から隅角を形成して下ろしてきた鋼製柱を剛結させて複合柱として再構築する工事や、これを含めた一連の工区を担当し、一日も早い復旧を願って業務を進めた記憶が強く残っています。 実工事以外でも、数多くの委員会や学会活動、研究会に参加させていただきました。個々には紹介できませんが、ここでお会いすることができた先生方、道路管理者の方々、同業他社の方々からは、数えきれないほど多くのことを教えていただき、私にとっての大きな財産となりました。 また、これだけ長く仕事をしていると、時には思いもよらない出来事に遭遇する事もありました。特に私は、担当した工事において、大ブロック製作した橋桁が、海上輸送中に海に没するという大事件を二度も経験しています。 一度目は白鳥大橋の補剛桁を室蘭へ輸送中に、銚子沖で台船が台風による波浪で座礁して桁が海にずり落ちた件、二度目は上海工場で製作したベトナムの鉄道橋を現地へ輸送中に、海南島沖でやはり台風に遭遇して桁が海中に没した件です。 もうこんな事件に遭遇するなど思いもせず過ごしていた昨年、台風による関西空港連絡橋への船舶衝突事故が発生しました。会社を挙げて復旧作業に取り組む中で、30年近く前の連絡橋建設当時に在籍していた数少ないメンバーとともに、拡大鏡を片手にマイクロ図面からのCAD起こしを手伝ったことも、私の橋歴の貴重な一頁として刻まれる事となりました。これから先、どのくらいこの仕事を続けて行けるのかわかりませんが、橋造りを志した昔の気持ちを大切に、これからも多くの人との繋がりを大切にして橋と関わって行きたいと感じています。 次は、これまでも実務や委員会で幾度となく御一緒し、大変お世話になるとともに不思議な縁を感じている川田工業の木本輝幸様にバトンをお渡し致します。

愛知製鋼