夢とロマンのある仕事

脇 一理日本橋梁株式会社
品質管理室
脇 一理

私が中学3年生だった1995年1月17日に阪神淡路大震災が発生しました。私は大阪市内に住んでおり、大きな被害は免れましたが、阪神高速3号神戸線の倒壊など震災の甚大な被害が新聞の一面に大きく掲載されていました。また、生活に不可欠な電気・水道・ガスや道路・鉄道などの生活インフラが寸断され、都市機能が失われ、日常生活を送ることができず、報道で〝ライフライン〟という言葉をよく耳にしました。当時、私は高校受験を控えており、大阪市立都島工業の都市工学科に進むことを決めていましたが、目的はクラブ活動であり、都市工学いわゆる土木というものに関心がありませんでした。しかし、この震災をきっかけにライフラインを支えている土木の重要性に気づかされました。 その後、希望通り進学することができ、土木について色々と学びました。多岐にわたる土木の広い分野の中から〝橋〟に興味を持ったのは、高校2年生の時、当時の担任の先生が〝土木の花形は橋梁だ〟という話をされていました。海や川などにより離れてしまっている街と街に橋を架けることで人や物が行き来し、物流が生まれ、新たな生活が育まれる夢のある仕事であり、また、その橋が後世にまで地図に残るロマンのある仕事だと語られており、感銘を受けました。その後、学校行事で当時開通前であった明石海峡大橋を目の前にした時、その壮大なスケールに圧倒されたと同時に、高校生ながらに将来はこういった仕事に携わりたいとの思いを強くしました。 その後、高校卒業後に現在の勤め先である日本橋梁に就職することができました。面接の際に橋に携わる仕事がしたいとの思いを伝えていましたが、配属されたのは鉄構部門でした。正直、期待していた部署ではなかったため、憮然とした表情が伝わってしまったのか、当時の部長から〝そう気を落とさずに、横になっている橋を縦にしたと思って頑張ってくれ〟と慰められたことを思い出します。今にして思えば、無茶苦茶な説得だったと笑えると同時に、部長も必死になだめてくれたと有難く思います。私のほうが非常に失礼な態度をとってしまったと反省しています。 1年後、ようやく鉄構の仕事に慣れてきたと思った矢先、会社の方針で鉄構事業から撤退することが決まり、播磨工場にある橋梁部門の生産設計課へ異動となりました。工場製作には欠かせない原寸作業を行う部署であり、2次元の図面に製作キャンバーを付加し、3次元に展開していき、そこから製作情報を工場に提供していきます。時には工場の職人に呼び出され、現物を見ることにより図面だけではわからないことも教えていただき、モノづくりの醍醐味を教わりました。特に思い入れのある物件は、大阪市内にある南海なんば駅となんばパークスを結ぶ〝蔵前デッキ〟というペデストリアンデッキ単純鋼床版鈑桁橋です。デッキ中央部を頂点とした縦横断の配水勾配を設ける構造と、複雑なキャンバーにより捻じれが生じるため、どのように製作情報を展開すれば良いのか苦慮しましたが、いろんな人に助けてもらいながら、なんとか完遂することができました。今でも、そこを通るたびに感慨深くなります。 2014年に品質管理室へ異動し、現在は新たな生産拠点である尾道工場で品質管理業務に従事しています。職場が変わったとはいえ、高校生時代に感銘を受けた仕事に携われているという気持ちを忘れずに、今後も社会インフラ整備を通じて、少しでも誰かの生活を支えることができればと思っています。 次は労働組合の活動を通して若い頃からお世話になっている、日本ファブテックの栗下健児さんにバトンをお渡しします。

愛知製鋼