橋梁技術者と教員

津田 誠石川工業高等専門学校
環境都市工学科准教授
津田 誠

人の役に立ちなさいという家訓で、小さいころから1年に1回の家族旅行の旅行先には、なぜか社会資本の見学が組み込まれていたような気がします。そのため、近県では黒四ダム、御母衣ダムで遠くは途中までしかつながっていない中国自動車道を経由して九州まで行きました。その時の関門橋は橋そのもののプロポーションだけではなく、その立地条件やパーキングで初めて食べたスパゲッティーミートソースの味も相まって多くの思いが巡り、私の将来の夢がおぼろげながら浮かんだことを記憶しております。 1990年4月バブルの勢いで運よく、北陸の高専から首都高速道路公団に就職できることができました。学生時代に学校の研修旅行にて初めて東京に行き、その時に当時建設中であった横浜ベイブリッジの橋桁に上がることができ、そのスケールの大きさに感動しました。また、ベイブリッジに向かうバスの車中にて、地元では存在しない背の高い橋脚やジャンクションの複雑な構造に衝撃を受けたことを今でも覚えております。 首都高にて最初に担当させてもらった橋梁は羽田空港の拡幅事業に伴う空港内のランプ橋でした。構造形式は2径間連続鋼床版箱桁と今思うとかなり特殊な構造であったと思いますが、それを課内の方々は「縦リブとは何ですか」と言う、新人の私に対して実践を通して鍛えていただきました。当時、CADによる原寸が主流になりつつある中で床書きの原寸もさせていただき、また、湾岸線建設に伴い新規の鋼構造物が多く、様々な工場に仮組み検査に行くことができ、その時の経験が技術者としての基礎になったと思います。 2005年には中央環状線と5号池袋線の交差部の渋滞対策として各3車線、合計6車線の上下2層構造の高架橋を各1車線ずつ拡幅する事業を担当する機会を頂きました。構造形式の検討ではラケット型橋脚を供用中の地震時での安全率を確保させながら、拡幅することが課題となり、結果既設橋脚の前後に新設の橋脚を構築し、上部構造を受けかえる計画としました。異動の関係で詳細設計までは携わることができなかったのですが、8車線を1本の橋脚で支える構造のため、終局時にどこでどのような破壊形態で壊れるかについて検討し、また、この時に多くの技術者の方に出会うことができました。  2007年故郷の石川県において震度6強の能登半島地震が発生し、当時の能登有料道路が甚大な被害にあっていることをきっかけに故郷の石川県に戻りました。さらに、縁あって能登有料道路を維持管理する事務所に配属され、そこで多くの橋梁がアルカリシリカ反応で劣化している現状を知り、補修・補強工事を担当させていただき、その時に金沢大学の鳥居和之先生に多くのご支援を頂きました。このことが縁となり、40歳を過ぎて学割が使える機会を頂き、鳥居和之先生からここでは書ききれないほど多くのご指導ご鞭撻をいただき学位を取得させていただきました。大学に通っている時に、小さいころからの橋梁技術者になりたいという夢ともう1つ教職になりたい夢を思い出し、縁あって母校に教員として戻って来ることができました。学校では橋梁工学を担当させていただき、自分でも「縦リブとはなんですか」と言っていたことを内緒にし、学生に教えている姿が何とも言えない気持ちになりました。これからは目が輝いている技術者の卵を多く輩出していきたいと考えております。 次回は初めて国際学会で発表したとき大変お世話になり、研究室の先輩でもあるアルスコンサルタンツの麻田正弘博士にバトンをお渡しさせていただきます。

愛知製鋼